相手が何を大切にし、何を考え、何を求めているのか?
懐かしいですね。
あの時と「相手」は違いますが同じ作業をまたしているなんて不思議だな。
こんな風に自分を観察していた時期がありました。
あくまで他人として自己観察していた。知りたくて。
自分でしたが、あくまで主人公は「他人」でした。
15年前私は「もう1度頑張ってみるかな、、人生」と目覚めた。
不意に涙がボロボロこぼれたのがきっかけ(心の氷解の始まりと後で名付けてはみたw)
何が起きていたやらどうなっていたのやら理解できず、自分の事を調べることにした。
対人は恐怖状態になってたし、本を読むことにした。
何を読めばいいのかは分からないけど出来ることがそれくらいだったから。
図書館に通い必ず限界(10冊)まで借り、起きている時間全部読書してた。
始めはなぜか哲学、次は心理学、倫理学、宗教、家庭学やら虐待やら事件やら教育に行き、音楽、そのあたりから小説、絵本、詩なんか読み漁った気がする。なんでかそんな順になった(よく分からないけど(^^;))
海外や日本、児童向けなどそんなことには拘らず、タイトルだけで気になった本を手に取り、借り読む。
あたりもはずれもあったけど、絶対に読了した。
なぜ自己観察かというと、読書ノートを書いていたからです。
それを眺め、また考える。新たに思いを付け足す。そんなことを繰り返してた。
私はそれまで読書の習慣がなかった。
なぜ読めないのだろうか?と考えた時、気になる言葉で止まり妄想するからw
ストップすると、そのあとなんだかもう終わっちゃうんですねモチベーション(-_-;)
そして最後まで読まないまま本当に終了。
そこで引っかかりは全部書いてやろう!そしたら止まっても、ある程度の時間で復活するかも!と思った。
書き残してるので再度考えに耽けりたかったり気になったりしたらノート見ればいい!という方法で「振り返れるよ」という安心を与えることでなんとか読書というものを成功させようとしました。
気になる言葉、引っかかる文章があれば、まず書く。
そして何を思ったか?何を考えたか。どうして?が分からないなら一言でも絞り出して。と自分を吐き出していった。
その作業が今思うと自己観察でした。
己を知るという言葉がありますが、本当にその通りになった気がする。
それはただ殺していただけ。あとは感情って溜まっていくものなんですね。
でも生きていたから、悲痛な叫びはもはやモンスターと化して暴れまわり飛び出そうとしていた。
それを何とか必死に感じないように、気づかないように、見ないように、感覚を麻痺させ、殺し続けていた。ずっと。
そのような事を知れました。
7年で1000冊は超えるくらい読んだのかな?
(その割には、文章理解は全くダメでしたね、初めの頃...)
そのくらい読書ノートをしていると新鮮さがなくなります。
ただ単にもう吐き出したのだから、残ってないのではなく、先を見ますよ。
1年で外に出てる。目を向けてる。試したくなってた自分を。もう1度社会で。世間で。
ボランティアで入って花屋で働きだした(お金なんてもらうつもりはなかった、人生やり直し、勉強させてもらってる身だから)
いつしか自分を試し、その中で経験を新たにし、経た気持ちなどを答えを、ノートに書くなら書きたい。となっていた。
そういう理由でノートに書くことが減ったし、気になる文章も減った。
(そういえば小説で感情を再学習したなぁと今思う😁)
そして置いてしまった。読書の習慣すら。
仕事の疲れ、ゆとりがない、なんて平凡な理由で、言い訳で...
また自己観察をしています。することになりました(^▽^;)
今度は「自分」が主人公になった。
同じ自分でも、他人として自分を観察していたのとは違い、今は自分を自分が観察している。
本当に自己観察ですね。
自分が何を大切にし、何を考え、何を求めているのか?
確固たる決意と覚悟のためにも。
今こそ知っておかないといけないんでしょうから。
そう言ってるもん、自分自身が、じゃあするさ。
自己観察

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